高陽親王、人形を造りて田の中に立つる語 (現代語訳)

 今は昔、桓武天皇の第七皇子で高陽親王《かやのみこ》と申し上げる方がいらっしゃった。この親王は、細工を作る事にかけては右に出る者はいないほどの名人であった。京極寺はこの親王が建立した寺である。

 この寺の前の河原に、寺の田があった。

 ある旱魃の年、国中の田という田が日に焼け駄目になってしまったと大騒ぎになった。京極寺の田は加茂川の水を引き入れていたのだが、川の水が途切れてしまった為に、一面干上がった地肌を見せ、稲も赤く焼け、今にも枯れそうであった。

 そこで親王は一計を案じ、両手に桶を持った高さ四尺(約1.2m)の童の人形を作り田の真ん中に立てた。実はこの人形、手にした桶に水を入れ一杯になると、顔に水が流れる仕組みだった。

 これを見た人は水を汲んで桶に入れ、流れる様を見て面白がった。人から人へとこの話が伝わり、やがて京中の人々が団体で押し掛けて、桶に水を入れては面白がるその騒ぎたるや、大変なものであった。こうしているうちに田は水で一杯になり、それを機にこの童の人形ハ取り外サレタ。

 しばらくしてまた水が乾くと、再び人形を取り出して田の中に立てる、するとまた以前のように人が集まって水を入れ、田は水で一杯になる――このようにして、寺田は日に焼けずに済んだのであった。

 これは本当にすばらしいからくりである。これというのも親王が工芸の名人で風流を極めた人であったからこそと、後世に語り伝えられている。

【主な参考資料】

 今昔物語集 本朝世俗部(二)、武石彰夫訳注、旺文社