池尾の禅珍内供の鼻の語 (現代語訳)

 今は昔、京の都の池尾という所に、禅珍という名の僧が住んでいた。

 彼は日頃から身を清め熱心に修行に励み、また折々の供養や説法を欠かす事無く行っていたので、御堂や仏堂・僧坊は少しも荒れた所がなく、常夜灯や供物も絶える事はなかった。また寺内には僧坊が立ち並び多くの僧が住み込み、その賑やかさたるや、寺の湯殿で湯浴みをする僧達の声が毎日のように周囲に響き渡るほどであった。このように栄えた寺であったので、付近の人家も次第に増え周囲の里は賑わった。

 さてこの禅珍は非情に変わった顔立ちをしていた。鼻の長さが実に五六寸(15cm〜18cm)もあり、鼻先が下あごよりも下がって見えた。その色は赤紫色で、表面は大きな蜜柑の皮のようにつぶ立ち膨れ上がっていた。禅珍はいつもこの鼻が痒くて仕方なかったが、どうにも我慢出来なくなると次のような処置をした。

 まずは湯を熱く沸かし、穴を開けた盆に鼻だけを差し込み、そこに湯を入れ十分に浸す。よく茹で上がり紫色になったところで鼻を引き出し、横になって鼻の下に物をあてがい、弟子に踏ませる。すると、黒くつぶ立った毛穴の一つ一つから、白い煙のようなものが出てくる。これを毛抜きで引き抜くと、毛虫のような四分(1.2cm)ばかりの脂の塊がどの穴からも出てくる。抜いた後は毛穴の一つ一つがぽっかり穴が開いたようになるが、この状態で再び茹でると、小さく縮んで普通の人と同じくらいの大きさになるのであった。

 だがしかし、二三日経つと再び痒くなり、赤く腫れて元のように腫れ上がってしまうので、先の処置をして小さくする――そんな事を幾度となく繰り返していた。

 このようなありさまであったので、粥などを食べる時には、弟子の法師に長さ一尺(30cm)幅一寸(3cm)の平らな板を鼻の下に添えさせ、食べ終わるまで上に持ち上げて貰わなければならなかった。だが、大抵の法師は持ち上げ方が下手で、とても食べる気にもならない。それで、ある法師を鼻の持ち上げ役として定め、他の者には一切やらせようとはしなかった。

 ところがある日、この持ち上げ役の法師が寝込んでしまった。

 朝粥を食べようにも鼻を持ち上げてくれる者がいなかったのでどうしたものかと困っていると、一人の童が「私の方がずっと上手く鼻を持ち上げて差し上げるに決まっています。あの小坊主ごときに劣る訳がありません」と言っているのを弟子の一人が聞き付け、禅珍に報告した。

 その童は上の屋敷に召し上げている見知った者で見た目もなかなか良かったので、禅珍は頷いてこう言った。

「そこまで言うのならばここに呼んで来なさい。今日はその者にやらせてみよう」

 使いの弟子が去って程なくその童は参上した。彼は禅珍に向かい畏まって座ると、例の添え木を手に取り、鼻をほどよい高さに持ち上げた。

「ふむ、いい塩梅ではないか。いつもの法師よりも上手いぞ」

 そう言って禅珍は嬉しそうに粥を啜っていたのだが、その最中、突然童は鼻がむずがゆくなり、顔をそむけ大きくくしゃみをした。童の手にした添え木は外れ、禅珍の鼻は粥の入った椀の中に勢いよく落ちて、禅珍の顔にも童の顔にも粥が派手に飛び散った。

「――お前はとんでもないろくでなしだ!」

 禅珍は懐紙で頭や顔に飛び散った粥を拭いながら童を怒鳴りつけた。

「よいか、相手がこの私だからまだよかったものの、もし高貴なお方の鼻を持ち上げる最中に、今のような失態をしでかしたらどうするつもりだ。大ばか者めが、さっさと出て行け!」

 童は無言で席を立つと、さっと柱の陰に隠れ肩をすくめた。

「やれやれ、こんな大鼻の人間が他にもいらっしゃるとお思いですか。無茶な事をおっしゃるお坊様だ」

 これを聞いた弟子達は、皆外に飛び出し大笑いした。

 さて、禅珍はこのようにあきれほど大きな鼻であったと後世に伝えられているが、実際はどれほどだったのだろうか。また、この話を伝え聞いた人々は童の言葉を褒めたという事である。

【主な参考資料】

 「今昔物語集」 本朝世俗部(三)、武石彰夫訳注、旺文社