さて少し時間が遡るが、宇治では女君が夜が明けても戻って来ないので、若君の乳母は変だと思っていたが、格子を上げる頃になっても姿を現さなかった。心配した女房達が探し回り始めたので、乳母は言葉もなく呆然と思い付きそうもないような隅々まで探してみたが、どこにも見付からない。どうしようもなく途方に暮れているところに権中納言が戻って来た。報告を受けた権中納言は目の前が真っ暗になり気が動転し、どうしたらいいか判断が出来なかった。
「それにしてもこれは一体どういう事ですか。日頃、どのような気色だったのですか。京から訪ねて来た人はいますか」
乳母は自分の手落ちで騒ぎになるのが嫌だったので申し出る事が出来なかった。
「……特にそういう様子はありませんでした。殿とお逢いしている時はさりげなくしていましたが、一人になると若君を一時も目を離さず見守りつつ忍び泣き明かし暮らしていましたので、どこかに恨めしく気掛かりに思っている人がいるのかもしれないと気の毒に見ていましたが、このように考えているとは思いも寄りませんでした」
こう言われてしまっては権中納言も返答のしようがない。幼い頃から限りなく大切にされてきたところをこうして忍び隠れた生活を強いらせ、しかも自分は四の君の世話に夢中でこちらにはほとんどおらず京にばかり出掛けていた。きっとこの生活に慣れず不本意な事だと思っていたに違いない。
さりげなく穏やかで安心した気色・有様で、何度見ても見飽きる事がないほど素晴らしかった女君を思い出し恋しさに心が動揺し、時間が経つにつれ気持ちがかき乱れ、来し方行く末も覚束ない状態であった。悲しく堪え難いので捜し歩く気も起きなかった。
権中納言はどうしたらいいか分からず悲しみに打ちひしがれていた。すぐ傍で事情を知らない若君が無邪気に笑っている。恐らく女君は絆《ほだ》しの我が子を捨てがたく愛しく思いながらも、これが最後と見捨てたのだろう。
「ああ、こんな子を見捨てるほどの気丈さであったか」
驚くばかりで返す返す言いようがない。胸が張り裂けそうで悔しく悲しく、女君の冷たさを限りなく思い知らされていた。女君が臥していた所に脱ぎ捨ててあった衣の残り香が女君の香りそのままであったので、権中納言は引き被り、よよと泣いた。これほどの事は夢に見るだけでも目覚めた後の名残は大変なものである。顔立ちや風情が言いようもなく愛敬づき魅力に溢れ、憂いもつらさも悲しい事も顔に出さず、愛らしく言いなしていた様子を思い返した。その恋しさは例えようがなく胸が一杯で、人が見たら愚かしいと思う事も気にせず地団駄を踏み、泣いても泣き足りない様子でいた。女房達も沈み臥した権中納言を見て、気の毒だと嘆いていた。
「それにしても協力した人がいなくてはここを出る事は出来ないはずで、幾ら何でも誰かは知っているはずなのに。どういう事なのだろうか」
権中納言は訳が分からなかった。
「もしかして、見て欲しいと思って書き置いた歌などはないだろうか」
だが、女君はそんな回りくどい事をするような人ではない。
そんな折、ある女房から噂を聞いた。
「言いようもなく清らかで美しく若い殿方が密かに美しい女を車に乗せてどこかに行ったのを見たが、あれは誰だったのか――と不思議がっている人がいました」
男姿であった時のように一人で出て行ったのかと思っていた事でさえ奇妙だと思っていたのに、ましてどういう事だろうかと更に混乱した。
「昔からつまらない事を悩んできたが、今の悩みに比べたらどれも大した事ではない。好色めいて様々な恋をしてきたが、最後はこのように惨めで身を責めるような悲しい事を嘆いて暮らす事になるとは……」
若君の顔だけを拠り所に、涙を流した。それほど深刻でなければ悲しい歌を詠んであれこれと思い続ける事も出来るが、今の権中納言はそれも出来なかった。
権中納言は女君の事を思うだけで胸が張り裂けそうで苦しい思いに苛まれていたが、そんな頃、右大臣家の四の君は今度もとても美しい女君を産んだ。だが衰弱した四の君は産後の肥立ちが悪く、元気になろうという気力もなく、息も絶え絶えな様子で泣いていた。
「父上にもう一度会う事も出来ず、勘当を許して頂けぬままわたしは死ぬのですね」
四の君の母は不憫に思い、泣く泣く右大臣に娘の様子を伝えた。
「世間の謗りを気にするのも、あの子が生きていればこそです」
今後の一切の面倒をみないと宣言し四の君を放逐した右大臣だったが、幾月が過ぎるにつれて恋しく悲しくただ茫然としていたので、妻からの報告を耐え難い思いで聞いた。
「確かに妻の言う事はもっともだ。世間の謗りなどもうどうでもいい。最期だというのに会わずに死に別れたらどんなに悔しく悲しい事か……」
すぐに右大臣は四の君のいる屋敷に向かった。四の君は今はあるかなきかの状態で、とても長い髪を傍らにうち添えて臥していた。その姿はどんな仇敵であってもおろそかに思わないだろうに、ましてあれほど可愛がっていた親の目にはどうしようもないくらいに衝撃的だった。どうしてこれまで意固地になっていたのだろう、我が子はどんなに辛い思いをしてきたのだろうと悔しく悲しかった。
「我が娘よ、こんなになるまで会わなかった私を許してくれ。限りなく愛しく思うあまり、心外な噂を耳にしたのが不愉快でついかっとなり勘当した事を、今では悔やんでいる。ともあれお前を死なせる訳にはいかない。神仏よ、我が命に代えて娘を救い下さい」
声も惜しまず泣き惑いながら、薬湯を無理に掬って四の君の口に入れた。生死が覚束ない四の君も父の声だと分かり、目を無理に開けて顔をじっと見つめるうちに涙が頬を伝った。右大臣はその様を見ているだけで悲しく心苦しく、祈祷の限りを尽くし、じっと抱きかかえて途方に暮れていた。
やがて四の君は意識を取り戻すと、苦しい息の下で言った。
「わたしを尼にして下さい」
「縁起でもない。私が生きているうちはそのような事を考えるではない」
右大臣は泣き惑い、万事に付け世話をして付き添っていた。四の君はそれが涙が出るほど嬉しく、我慢して薬湯などを飲んだせいだろうか、見違えるほど回復した。その後、右大臣邸に場所を移し、その後も右大臣は片時も離れず四の君を看病した。
権中納言が失踪した女君の事を考えて思い沈み、来し方行く末を忘れて訪れないのも、以前だったら恨めしく思っただろうが、こうして右大臣邸に移った来れないのだろうと思い込んでいるのは、権中納言にとっては折のよい事であった。右大臣は今度生まれた姫君に乳母をたくさん付けとても可愛がっていたが、行方不明の右大将から知らせがないのを「残念で辛い事だ」と思っていた。
男君と女君はいつまでも吉野山で籠もって過ごす訳にはいかず、また父母がとても心配しているので密かに京へ出発することを決心した。だが、男君は姉宮と少しでも離れてしまう事が心配だった。
「このまま私と一緒に京へ行きましょう」
男君の誘いの言葉に姉宮も別れが心細く悲しかったが、決心が付かなかった。
「世間から隠れて住み慣れたこの山の陰から離れ、まだあまり見慣れぬ彼に身を任せて行くのはどうだろうか。自分一人だけでないし、残していけないからと中の君まで連れて行くのは気詰まりがするだろう。浮世離れしたこの吉野山で住んできたが、京に行ってしまったら吉野山の麓近くで住む訳にもいかず、父上と会う事も出来ずに様子を想像するしかなく不安な日々を過ごすに違いない。また、突然、立派な場所に人並みでないわたしが出て行っても笑いものになるだけではないか。辛い目に合ってここに戻ってきたとしても、松はそんなわたしをどう思う事であろう」
京に行く事は全く考えていない――と誘いに乗る気配もないので、その事を男君が恨むと、姉宮さすがに涙ぐんだ。
住み侘びて思ひ入りけん吉野山またや憂き世にたち帰るべき
(住み侘びて吉野山に入ったはずなのに、再び憂き世に帰る事が出来ましょうか)
「どうぞお察し下さい、わたしはこのまま吉野山におります……」
消え入るように言うその様は気品があり上品で美しかった。
住み侘びて今はと山に入る人もさてのみあらぬものとこそ聞け
(住み侘びて今はと山に入った人も、いつまでもそうしていられないと聞いております)
「そう言われると、私の方が恥ずかしい」
男君は恨み言を言ったが、確かにいきなり京に連れて行ったとしても、東宮に打ち明けない訳にはいかないので悩んだ。
「なるほど、急なのは確かだ。迎える屋敷を用意した上で改めて迎える事にしよう。それに今回は隠れ忍んで行く事になるので目立つ事は避けた方がいいだろう。まずは吉野山の宮が見ても驚くくらいに準備をしておこう」
そう考えた男君は姉宮を諦めて吉野山を出た。
二人は闇に紛れて京に入った。男君は尚侍の頃に自分が使っていた部屋の御帳に女君を入れ、自分はその前に座った。左大臣は目の前の二人があまりに似ていたので、かつて「とりかへばや(二人を取り替えたい)」と嘆いていた悩みが消え去り、何も変わらないのが嬉しく涙に暮れてよく見る事も出来なかった。
女君はとても愛らしく、また慕わしく華やかで、髪は艶やかにゆらゆらと肩に掛かった様が実に素晴らしく、なよよかに座っている様が夢のようであった。一方の男君も言いようもない程に清らかな姿で、美々しく伺候している姿は現とも思えない。左大臣は二人がどのように入れ替わったのだろうかと落ち着かなかったが、無理もない事であった。
「元々、こうあるべきだったのだ。それぞれ気持ちが変わらぬよう、そのままの姿で過ごすがよい。姿形がそっくりで本当に具合がよかった。これほど違う所がないのも不思議な事であるが、こういう宿世であったのやもしれぬ。――息子よ、今後は右大将として宮仕えをしなさい。見たところ少しも以前の右大将と違う所がないので、少し位別人だと思われても大丈夫だろうし、またあれこれ言って咎める人もいまい。右大臣家の娘は権中納言がわざわざ付き添って心配しながら世話をしているそうだが、右大臣も勘当を解いて自分の屋敷に迎えたそうだ。内心では不満もあろうが、今は下手に動かぬのが誰にとっても良策であろう」
左大臣は語り終えると呻いた。尚侍は胸が潰れる思いで左大臣の様を見ていた。
周囲には「ここ数日、尚侍は病んでいます」と取り繕ってあったので東宮から使者が来た。
「どのような様子ですか。東宮も気分がすぐれぬ様子ですので治ったら早く来るように――と伝言がありました」
新しく右大将になった男君はそれを聞いて切なく思った。
一方、左大臣は気持ちが焦っていた。
「早く内裏に行きなさい。右大臣家の娘の心外な事件に嫌気が差して吉野山の宮のもとで隠れていたとでも言い繕えばよかろう」
だが、きっと不慣れで不審に思われるだろうと恥ずかしい気持ちから決心がつかない。しかし、世間の噂はどんな場合ももっともらしく語られるものである。
「右大将は権中納言の事を嘆き悲しみ、吉野山の宮のもとに隠れて出家しようと考えていたが、宮の娘と親しくなり世を捨てる事が出来なくなったものの、あの事件が今でも不愉快で都に戻る気はなかったらしい。その事情を聞いた左大臣が、今は限りの親の顔を今一度見ようとも思わないのか――と泣き悲しみうらみながら説得したので、断る事も出来ず仕方なく京に戻ってきたそうだ」
人々は勝手に言い騒いで無事をとても喜んでいた。