七月、尚侍《ないしのかみ》は妊娠五ヶ月となった事を帝に伝えて二条邸に退出した。右大将はこの事をとても喜んだが、尚侍は月日を重ねるにつれて初めに産んだ若君の事や、かつて世の中が気ぜわしく心細くなって全ての公務を途中で見捨てて姿を消してしまった事、宇治の橋姫のように権中納言ですら待ち遠しく思って嘆き過ごしていた事を思い出していた。
その権中納言は今は右大将の屋敷に滞在しており、女房等と冗談を言ってふざけ合っているのを里帰りした尚侍は目撃した。権中納言とは昔から見苦しい程まで慣れ親しみ、何でも分け隔てなく語り合っていたのに、その挙句、情けない事に人とは違う姿を晒してしまった命運をしみじみと思い返していた。だが一方で、権中納言の声や気配を聞く度に若君の無心の笑顔を思い出し、辛さの余り涙を零す事もあったが、見咎める人がいたら変に思うだろうと押し拭って紛らしていた。
八月下旬、右大臣家の四の君は二条殿で出産する予定で移って来た。四の君の部屋に行き、付きっ切りで世話をしている右大将の様子は理想的だった。四の君は決まりが悪いので姫君達を連れてきていなかったが、一方の右大将も「どうしていないのだ。ぜひ連れて来なさい」とも言わないので、世間の噂はやはり空言ではなかったのだと右大臣達は推測していた。
九月一日頃、とても安産で若君が生まれた。左大臣や右大将はこの上なく喜んだ。今回は右大将も父親が誰なのか疑う事もなく、自ら産養い《うぶやしない》や何やら取り仕切っているので、左大臣は有頂天で喜んだ。
その様子を耳にした尚侍《ないしのかみ》は様々あった過去を思い出していた。初めの姫君の七夜の祝いの事や、次の姫君の出産の時は宇治に姿を隠していて心苦しく聞いた事をしんみりと人知れず思い出し、夢の中の出来事のように感じていた。
今度の若君は姫君達とは少しも似ず、右大将の顔を写し取ったような顔なので、右大臣はとても嬉しく思っていた。
引き続いて右大将は尚侍の世話に専念したが、尚侍もほとんど苦しむ事もなく男宮を出産した。長年、世継ぎがいなかったので昼夜祈念し、多くの神仏に祈祷した効験だろうか。このように何の心配もなく今をときめく一族の女から生まれた事を、誰もがめったにない幸運だと驚いた。産屋の祝いはもちろんの事、三日の夜は左大臣、五日目は東宮大夫《とうぐうのだいぶ》、七日目は帝、九日目は右大将が、それぞれに心を尽くした宴は素晴らしかった。通常の祝宴に更に趣向を凝らし、管弦や何かと限りなく贅を尽くした催しが行われたが、その間も尚侍は宇治で生んだ若君の事を忘れる時がなかった。とても可愛らしく王気付いていたのに他人に知られる事もなく生まれた我が子の事を思うと、涙がほろほろと零れ落ちた。
ひたぶるに思ひ出でじと思ふ世に忘れ形見のなに残りけん
(ひたすら思い出したくない思っているあの頃の事ですが、どうして忘れ形見を残してしまったのでしょう)
その頃、大臣の任命式があり、右大将は兼任で内大臣になった。他の人々も順次昇進し、権中納言は大納言となった。大納言は喜びにつけても昔の事を思い出していた。権中納言になった折に四の君が「人知れぬをぞ」という歌を送って来たのを見て、宇治の橋姫が顔には出さなかったもののどういう事かと不振がっていたのを今の事のように思い出し、嬉しさで熱くなっていた気持ちが冷えたような気がしてほろほろと涙を流した。
大納言は宇治の若君を二条邸に迎えて吉野山の妹宮に預ける事にした。妹宮は若君をとても愛しく思い、抱いて世話をするので大納言は嬉しく思った。一方、若君の乳母は嘆かわしくも姿を消した若君の母親が吉野山の宮の娘ではないかとそれとなく思っていたところ、大納言が急に結婚して若君を迎えた事をとても嬉しく胸が一杯になった。
「大納言様は行方不明で思い嘆いた人の事を聞き出したに違いない。早く会って幾月も積もった話をしたい」
妹宮は若君の可愛らしさに乳母に恥ずかしがってばかりもいられずそっと姿を見せた。乳母は妹宮を見て、以前に見た女とは違うので、とてもがっかりして納得し難かったが、この人も愛らしく実の親子以上に若君を可愛がるので、どうしようもなく恋しく悲しかった心が慰められていた。大納言がいない時には妹宮に伺候して話などをしていたが、とても親しげに可愛らしく話すので乳母は嬉しく思い、若君が母親と別れた時の事や、母親が見飽きる事がないほど容貌・有様が素晴らしかった事を隔てなく語ると、妹宮は涙を流した。
「お気の毒な事ですね。今、ただこうして世話をしているだけでも若君と別れる事が辛く思うのに、どういう心境で若君を捨てて行方を絶ってしまったのでしょうか」
「若君の母親は貴女様の姉妹ではないかと思っていました。若君がこちらに移った時にも別の人とは思いも寄らず、一刻も早く会いたいと思っていました。今は別の方だと分かりましたが、実の母親よりも親しげで優れている人柄に嬉しく思っています。ですが、母親だった人が今はどこでどうしているのかと心が休まる時がありません。もしかして右大将様の北の方がその人ではないのでしょうか」
乳母が声を潜めて話をすると、妹宮は笑って言った。
「貴女は別の事を考えていたのに何も気が付かず、こうして姿を出してしまったのは恥ずかしい事です。右大将の奥方とわたし以外に姉妹はいませんが、右大将の奥方はそのような人ではありません。どうして人違いをしたのか不思議ですが、わたしも姉も疑われるのは残念です」
そう言う様子も愛らしく魅力的だったが、乳母は若君の母親の事を忘れる事が出来なかった。
慶事が続いたまま年が改まった。
これまで帝には世継ぎの男子がいなかったので女東宮が立っていた。だが、患いが続くのを理由に本人は位を退きたいと思っていた為、正月、五十日の儀に合わせて若君が東宮に立った。一方、前の東宮は院となって女院と呼ばれる事になった。
尚侍《ないしのかみ》が女院に好意を寄せていた事に事寄せて女院の世話をするので、女院の父親である朱雀院も大変嬉しく思っていた。
若君が東宮になったのに引き続き、尚侍は女御《にょうご》の宣旨を受け、四月には后となった。その時の儀式や有様はこれまでのものとは異なり盛大だった。長年、皆が求めていたあるべき姿であったので、誰もが満足しているようだった。
大納言は右大将の信頼が厚い理由で中宮丈夫《ちゅうぐうのだいぶ》になった。昔、「志賀の浦」の歌を詠んで思いを寄せようとした時の事を思い出してしんみりとしていたが、実は宇治の橋姫であると気づいていないのは哀れだった。
言葉を話すようになり走り遊んでいる若君を見るにつけ、大納言は忘れる事が出来ない過去の事を思い出していた。
「それにしても宇治の橋姫がどうなったという事さえ未だにはっきりしないが、この女君は事情を知っているかもしれない」
大納言は折を見ては尋ねてみるが、吉野山の妹宮は分からない様子なのでより気になってくる。
「右大将はいつ頃から吉野山に来るようになったのですか」
「そうですね、中納言だった時から時々、来ていたと聞いています」
「姉君とはいつから一緒に住んでいるのですか。どのようにして通うようになったのですか」
「一昨年くらいからでしょうか。あまりよく分かりません」
妹宮は言い紛らすので大納言は恨み言を言った。
「私は長年思い悩んで果ては病に掛かり命も絶え絶えとなったのですが、思いがけず貴女を見初めてからはこの世に留まる気持ちも出てきて、二人といない限りなく愛しい人だと思っていました。それなのに、幾らなんでも知っているはずなのに、このように心を隔てているのがとても心外です。少しでも私の事を思ってくれているのなら話してくれてもいいではありませんか」
大納言の言葉に妹宮は微笑んだ。
「わたしは隔てている事は何もありませんが、貴方の心こそ隔てがあって、ありのままに言っていないようです。もっとも貴方の心の内が分かったとしても何をお伝えしたらいいのでしょうか」
「隠すつもりはありませんが、話す事が出来ない事情があるのもお察し下さい。はっきり言わなくても、きっとその事だろうと気づいた事があったら教えてくれませんか。私もそれに続いて初めから話しますから」
「貴方の心の中で知っている事でさえ口に出して言いにくいと思っているのに、どうしてほんの少し知っているだけの事を言う事が出来ましょう。考え直して下さい」
そう言って微笑む姿がとても好ましいので、妻とした甲斐があったと嬉しく、この人でなければどれほど侘しい気持ちになっただろうと思った。
はっきりと言ってくれる人はいなかったが妹宮は朧げに事情を察していたので、大納言の心中はきっと気掛かりで納得出来ないに違いないだろうと気の毒に思っていたが、一方で誰にとっても奇妙で不思議な事を中途半端に口にするのは問題だろうと決心し、話そうとはしなかった。大納言はひどく残念で恨めしいと思い、何とか聞き出そうと機嫌を取ろうとするが無駄であった。
「ただ、何か事情があるのだろうとお察し下さい。聞いて分かったとしても絶え果ててしまった野中の清水は再び汲もうと思っても難しい事です。今よりも貴方の心は苦しくなり、世間に悪い噂が流れるのはよくありません」
頑として口を開かない苛立たしさはどうしようもない。行方不明で苦しむ事はいざ知らず、知っていながら教えてくれない事への不満も言いようがなかった。
瞬く間に月日は過ぎ去った。中宮は二宮、三宮、内親王まで産んだ。こういう宿世《すくせ》だったのだと世の人々も帝の寵愛を独占する中宮を許し、女御《にょうご》や更衣《こうい》も我が身の不運を恨むしかなかった。右大臣家の女御は他の女よりも先に入内《じゅだい》して「我こそは」と思っていたが、寵愛を失ってもなお宮中に留まり続ける事が具合悪く里に下がってしまった。
「かつて四の君の件で右大臣に恨まれた報いだろうか。それともまだ宇治の橋姫で物思いに耽っていた頃に四の君のせいで男をつれないと思い悩んだ報いだろうか」
中宮は過去を思い出しながら、自分の為に女御が世を恨んで里に籠もってしまったのも浅からぬ縁の故だろうと、互いに恨みが絶えそうにない両家の因縁を思い知らされていた。
右大将にも四の君の腹に男が三人続けて生まれた。大殿で成長した若君も今は成人して童殿上《わらわてんじょう》などして歩き回っていたが、吉野山の姉宮には子どもが授からなかったのでこの若君を養子に迎え、特に可愛がっていた。若君は女院《にょいん》にも殿上を許されいつも参上する様を、昔に宣旨《せんじ》だった侍女はとてもしみじみと見ており、中宮との縁もあって女院を疎かにしない右大将の心にことよせ御簾《みす》の内に入れてとても興じ可愛がった。女院も引っ込み思案ではあったが、可愛らしく成長した我が子を思う気持からいとおしく見ていた。
宮の大納言も吉野山の妹宮の腹に姫君二人と若君が生まれたが、下の姫君は右大将の北の方が特に目を掛けて若君と一緒に左右に置いて育てていた。
人知れず生まれた宇治の若君も今は大納言の下で成長し、右大将の若君と同じように童殿上《わらわてんじょう》して内裏を歩いていたが、中宮はその姿を見る度に胸が打たれ、東宮やその他の子どもに劣らず切なく愛しく思っていた。
ある春のつれづれのどかな昼下がり、二宮と宇治の若君が遊びながら中宮の部屋に来た。二人ともとてもよく似ているが、いま少し美しく愛敬に溢れている若君を見るにつけ立派で、切ない思いを抑える事が出来ず、女房達が多くいない時だったので安心して御簾《みす》の中に入ってくるようにと声を掛けた。二宮は入ってきたが、若君は入ってこなかった。
「お入りなさい。構わないですから」
端に静かに畏まって、御簾を肩に掛けて控えている若君の様がとても可愛らしく、――今は最後と引き離れて乳母に抱き取らせて密かに宇治を離れた宵の事を思い出し、それが今であるような心地がしてたまらなく悲しかった。中宮はここで泣いたら変に思うかもしれないと無理に隠そうとしたが、溢れる涙を抑える事が出来ず、押し拭い隠しながら言った。
「貴方の母上と申し上げる人は知っていますか。大納言は何と言っていますか」
若君は物心がつくにつれて母親がどうなったのかと気になっており、大納言や乳母が明け暮れ口にして恋い泣いても依然として行方不明のままであった。見た目や様子が愛らしく若い中宮が泣きながら、打ち泣いて悲しい様子で母親の事を尋ねるので、もしやこの人が母上ではないだろうか――と胸が一杯になった。
「だが、この人は本当に自分の母上だろうか。行方不明となった母上と間違われる事があろうか」
若君は落ち着いて考えながら真剣な表情のまま黙っていた。中宮は相手の心中を考えると悲しく、じっと見ながら袖を顔に押し当ててひどく泣くと、若君もうつむいて涙を零した。その様子が不憫なので、近くに膝を進めて髪をかき撫でた。
「貴方の母上はわたしとしかるべき縁のある人で、貴方の事を忘れ難く恋しく思っているのを見るのが心苦しい様子でしたので、ついこのように話してしまいました。恐らく大納言は貴方の母上はもうこの世にないと思っているでしょう。ですが、このような事があったとは話さないで下さい。ただ貴方の心の中だけで、母上はこの世に生きていると思い、何かあった折にはここに来なさい。こっそりと引き逢わせてあげます」
ひどく悲しげな顔で頷いて座っている若君が愛らしく離れ難く思っていたが、二宮が走ってきて「さあ、行こう」と引き立てて去ってしまった。名残惜しくも悲しく端で涙を零して見送ると臥してしまった。十一歳になった若君は髪が脛《はぎ》の辺りまでゆらゆらと掛かり、とても可愛らしい様子で宮達に打ち畏まっている様子を見ているだけで切なかった。
同じ巣に帰へるとならば田鶴の子のなどて雲居《くもゐ》のよそになりけん
(鶴は同じ巣に帰ると言うが、どうしてあの子だけが内裏の外の人になってしまったのか)
中宮は歌を詠んで涙を流した。
――その少し前、帝が中宮の部屋にやって来てそっと物陰から覗くと、中宮が若君に向かって泣く泣く語っていた。変に思い、音を立てず観察しているうちに事情を知ってしまった。
「やはりそうか、何か事情があると思っていたがこの若君は中宮の子だったのだ。奇妙な事に母親が誰とも分からぬまま、大納言が明け暮れ涙の川に浮き沈みつつ側から離さず育てていたと聞いていたが、こういう理由であったか。その昔、病気を理由に東宮へも行かず半年ほど引き籠もっていたのは出産が為だったのだろう」
この若君の年齢を考えると疑いの余地はないと帝は納得した。長年、中宮の最初の男が誰であるか訝しく思い続けていたが、今日、こうして事情を知る事が出来て帝は嬉しく思った。
「左大臣が事情を知りながら結婚を許さなかった相手はどんなつまらない男だったのかと少し失望していたが、あの大納言ならば帝でも少しでも欠点があったら叶わないだろう。人柄や容貌、有様を始めとして非常に優れた人物なので結婚を認められぬような相手ではないと思うが、どうしても后にさせたいと思う気持ちにそぐわなかったのか、大納言の人柄が浮気で信頼出来なかったのか、もしくは右大臣にありきたりの結婚だと思われてしまうかもしれないと気になり、許さなかったのだろう」
帝は中宮と大納言との関係を推測し、気の毒に思った。
帝はもっと中宮の様子を見たいのでたった今来たかのように現れると、中宮は涙を押し拭い隠して起き上がった。日頃は何とも思わなかったが、確かに若君が宮達と一緒に遊んでいる様子はとても似ているので、これまで気付かなかった自分の鈍感さを滑稽に感じた。
「右大将や源《げん》大納言などは今は老上達部《おいかんだちめ》になって、この内裏に美しい人がいなくなってしまった気がするが、その子ども達も増えて、父親達にも劣らない容貌や様子のようなので、いずれは優れた人が多く出そうですね。中でも先程の若君や右大将の四の君が産んだ男の子は、今から抜きん出ているようです。右大将の大若君と先の若君の母親は、誰であるか知られていないのが不思議ですが、右大将の子どもは女院ではないかと世人は噂しているそうです。なるほど、確かに人柄や様子が気高く優雅で、そうなのだろうと思わずにいられません。一方、あの大納言の若君はそういう噂がありません。いや、他人は知っているが、私に教えてくれる人がいないだけでしょうか」
中宮は微笑む帝を見て、もしかしたら自分の様子を怪しいと見たのだろうかと気付いて辛いと思った。
「……さあ、わたしはその事は知りません。右大将の若君の噂は心外です。女院にとって軽々しい話を言わないで下さい。きっと別人でしょう。この件に関してはわたしが知らないのに、どうしてそういう事が起きましょうか」
「ですから、きっと貴女は知っているだろうと人々は噂しているのです。もしそうだとしても実際、誰の為にも具合が悪いという訳ではありませんからいいではありませんか。それではこの件については知らないという事ですが、大納言の若君については知っていますか。そちらの事情も知りたいのです」
中宮は答えようがなく顔を真っ赤にして横を向いたが、その愛らしさは比べようがなかった。どんな咎や過ちがあったとしても一目見ただけで全ての咎が消え失せてしまうような様子であり、しかも年月を重ねるうちにこの中宮にだけ子どもが生まれたので、帝の心はどちらにしてもいよいよ寵愛が深くなる事はあっても、失望する事はなかった。その日も二人は抱き合って一夜を過ごした。
大納言家の若君は先程の名残で何となくしみじみとした気分で内裏を出ると、乳母にこっそりと打ち明けた。
「私の母ではないかと思われる人に逢いました。父には知らせるなと言われたので、言わないつもりです」
とても辛そうに涙を一杯に浮かべて話す若君に乳母はひどく驚き、不憫に感じた。
「それは一体どういう事ですか。どこにいるのですか。どうして母上だと分かったのですか。顔や姿はどのようでしたか」
「顔や姿はとても若く美しく、こちらの母上よりも少し愛らしく気高い様子でした。母だと名乗りはしませんでしたが、――貴方の母親はこの世に生きているとだけは覚えておいて下さいと言ってひどく泣きました」
若君はとても悲しい様子だったが、それ以上はどこにいたとも口にしないので乳母はもどかしく思った。
「殿があれほど寝ても覚めても恋しく悲しく思っているのですから、この世に生きていたと何とかして知らせたいのに、どうしてそのように隠すのですか。そもそもどうやって貴方は母上を見たのですか」
「父にはこうだと伝えてはいけないと言われました。今度、逢う機械があって、殿にもお話し申し上げなさい――と許しがあった時に父に話します。今は言わないで下さい」
乳母に口止めするのも、幼い人に似合わずとても愛らしくしっかりしていると乳母は思った。
さて、右大将は麗景殿《れいけいでん》の女をさすがに行きずりの女として思い捨てるのは気の毒だったので、しかるべき折々に忍んで通っているうちにとても可愛らしい姫君が一人生まれた。四の君が産んだ姫君達の他に女の子はいない事を気掛かり感じていたので、ぜひ屋敷に迎えたいと考えた。しかし、長年、子どもが生まれぬ事を嘆いていた麗景殿の女御《にょうご》は授かった姫君をとても可愛がり、手放そうとはしなかった。右大将も納得し、女御の後見任として世話をした。これまでは帝の中宮への寵愛で肩身が狭く、人目にも具合が悪い事が多く決まりが悪いまま宮仕えをしていたが、右大将が気の毒に思って心を寄せて仕えたので、万事が上手くいくようになった。
年月も過ぎ去り、関白左大臣は髪を下ろして出家し、右大臣が太政大臣になった。同時に右大将は左大臣に昇進し関白を兼任する事になった。宮の大納言は内大臣で大将を兼任した。若君達も元服し、中将、少将となった。また帝も位を退き、東宮が帝位に就いた。二宮が東宮となった。新・関白の四の君が産んだ姉妹は女御として入内し藤壺に入ると、続いて麗景殿で育った姫君が東宮の女御として入内した。
様々に思い通りめでたく満足する事が続く中でも、内大臣の心は晴れなかった。年月が過ぎ行き世の中が変わって行ってもなお、宇治の橋姫の事を想うと涙が袖を濡らさない時はなく、三位中将となった若君が成長するにつれて、他の人より抜きん出た様子や顔立ち、学才を見るにつけ、「どんな気持ちでこの子を見ず知らずのまま行方を絶ってしまおうと思ったのだろう」と苦しくも恋しく、一方ならず悲しかった。
了