花桜折る中将 (現代語訳)


 朝の光と見間違えんばかりに月が輝く夜であった。

 その惜しげも無い明るさに誘われるように、中将は寝床を抜け出した。

 ――気が付くといつの間にか大通りを歩いていた。残してきた女の事が気になり、引き返す事も考えた。だが、既に戻るに戻れぬ所まで来てしまっていたので、諦めて自分の屋敷へと帰る事にした。

 辺りの家々はしんと静まり物音一つしない。聞こえるのは自分と従者の足音だけである。無言で歩き続けた中将はある屋敷の前で足を止めた。

 隈無き月の光の下、桜の大木が霞の如く一面に花を咲かせていた。先刻、女の家で見たものとは比べ物にならない程、立派な枝振りである。

 中将は何とも通り過ぎがたい心地がして、次のような歌を詠んだ。


そなたへと行きもやられず花桜にほう木かげにたびだたれつつ

(今宵、貴女の元を去ったのは、この桜に誘われたが為です)


 ――ふと、ある女の顔が脳裏に浮かんだ。

 忘れていたが、それはかつて、他でもないこの場所で愛を語らった女であった。

 桜の木を眺め、彼女は今はどうしているのであろうと感傷に浸っていると、築地の崩れたところから白い衣を着た男が現れた。中将は慌てて物陰に身を隠そうとしたが、使用人らしき男はそれに気付かず、咳き込みながら何処へと立ち去った。

 あの女はまだこの屋敷に住んでいるのだろうか――。

 中将は築地に近づき中の様子を伺った。何時の頃から手を入れていないのだろう、庭も屋敷もあわれを誘うばかりに荒れ果て、人が住んでいるかすら疑わしい寂しげな様である。

 さてこれからどうしようかと思案しているうちに、用件が終わったのだろう、先の使用人が戻ってきたので、これを呼び止め尋ねる事にした。

「もし、ここに住んでいらっしゃった方は、まだおいでになるのか。もしおいでならば、あなたと永久《とわ》を誓った男が待っている――と取り次いで欲しいのだが」

 使用人の男は表情を曇らせると首を横に振った。

「誠に申し訳ありませんが、そのお方はここにはおいでになりません」

「それでは何処に」

 男は都から遠く離れた山里の名を告げると、深々と頭を下げ、屋敷へ帰って行った。

「尼にでもなったのだろうか、あわれな――」

 中将は従者達を顧みると寂しげな笑みを浮かべた。

「これで、もう光遠《みつとお》に手引きして貰う必要もなくなったという事か」

 その時、屋敷の方から妻戸を静かに開ける音が聞こえた。

 中将は従者達を先に帰らせると、透垣の内に入り、庭のすすきの茂みに身を隠した。

 屋敷の内より年頃の可愛らしげな女童が顔を覘かせた。

「ねえ、小納言の君。もう夜は明けたのかしら。ほら、貴女もこちらに来て見てご覧なさいよ」

 一見したところ宿直《とのい》が萎えてしまっているが、蘇芳色のつややかな衵《あこめ》、そして黒髪が小袿《こうちき》に映える姿が、何とも華やかで美しかった。

 女童は縁側をそっと降りると、月の光に向かって扇を翳しながら、


あたら夜の月と花とを同じくは心知れらむ人にみせばや

(この美しい月と花をどうにかしてあの人にも見せてあげたい)


 と口ずさみ、桜の木の方へと歩いて来た。

 中将は今すぐにでも彼女の前に出て行きたい衝動にかられたが、その気持ちを抑えしばらく様子を窺っていると、今度は少し大人びた女房の声がした。

「……もう、そろそろ夜明けだと言うのに、どうして季光《すえみつ》は、まだ起きてこないのかしら」

 女房は庭に下りた女童を見付け、少し驚いた様子で声を上げた。

「あら、弁の君、そんな所にいたのね。早くこっちにいらっしゃい」

 女房の手招きで、女童は渋々といった表情で屋敷へと戻って行った。

 中将は二人の会話に耳をそばだてた。断片的に聞こえてくる話から推測すると、彼女達はこれから神社に参詣に出向く予定だが、女童は居残る事になっており、その事について二人はもめている様子であった。

「ああ、もう。そんなのつまらないわ。――それなら、お供として途中まで一緒に行くけれど、私だけ近くの別の場所で下ろしてもらって、お社には行かない、というのはどうかしら?」

「馬鹿な事を言わないの」

 女房は呆れ顔で相手をたしなめた。

「貴女、今日は物忌の日でしょう? お屋敷で大人しくしてて頂戴」

「……わかったわ」

 女童は小さく溜息をついて頷いた。

 中将は二人のやり取りを微笑ましく眺めていたが、やがて屋敷から身支度を終えた年頃の女達が五六人現れた。その中の一人、縁側を降りようとしている、一際美しい女に気が付いた。

 ――彼女こそがこの屋敷の主であろう。

 優雅に衣を打ち掛けたその姿は小柄で愛らしく、また言葉使いもただ可愛いというだけでなく何とも言えぬ趣を具えていた。

 中将は女の可憐な姿に見惚れ思わず嘆息を漏らした。

「今宵は彼女を見る事が出来ただけで満足だ」

 気が付けば東の空が白々と明るみ始めていたので、中将は女達に気付かれぬように、静かに屋敷を後にした。





 その日、中将は日が高く差し上がる頃に起床すると、昨夜残してきてた女宛てに後朝《きぬぎぬ》の文を書いた。

「――昨晩は朝を待たずして貴女の元を失礼してしまいましたが、それは貴女のご機嫌が芳しくなかった故の事。身を切るような私の辛さもお察し下さい」

 したためた文を柳の枝に結び付け、次のような歌を添えた。


さらざりしいにしへよりも青柳のいとどぞ今朝は思ひみだるる

(貴女が今よりも優しかった頃から私の心は乱れていましたが、今朝の辛さはそれとは比べものになりません)


 やがて女からの返歌が届けられた。


かけざりし方にぞはひし糸なれば解くと見しまにまたみだれつつ

(特に好きでもない私にさえ気を使う貴方の事ですから、ここで私が心許すと知るや、すぐに別の女の事で心乱れるのではないですか)


 歌に込められた意図に苦笑いしながらも、なかなかどうして大したものだと感心していると、源中将と兵衛の佐が従者に小弓を持たせてやって来た。

「昨夜はどちらにおいででしたか。内裏で管弦の宴が催され、君にもお召しの声が掛かっていたのですが、ご存知ありませんでしたか?」

「左様。我ら二人、方々探し回りましたが一向にお姿が見えず、困り果てておりましたのですぞ」

「それは変ですね。私は昨晩はずっとここに居りましたが。――世の中には不可思議な事もあるものですね」

 そ知らぬ顔で中将が答えると、三人は同時に笑った。

 ――柔らかな春風がさっと通り抜けた。

 庭で今は盛りと咲き誇る桜の枝が揺れ、薄紅色の花弁が吹雪の如く辺り一面に舞い散った。

 源中将はその様を見て、


あかで散る花見るをりはひたみちに

(散り急ぐ桜の花を見るとただひたすらに)


 と呟くと、続いて兵衛の佐が、


我が身にかつはかはりしがな

(わが身に代えてでも押し留めたいと思うのです)


 と下の句を詠んだ。

 中将の君はこれを聞いて、

「いや、いくら桜を惜しんでも、死んでしまっては仕方なかろう」

 と、次のような歌を詠んだ。


散る花ををしみとめても君なくは誰にか見せむ宿の桜を

(散り行く桜を止める事が出来たとしても、あなたがいなければ一体誰に見せればいいのでしょうか)


「これは素晴らしい」

「我らとは目の付け所が違いますな」

「ははは。煽てても何も出てこないぞ」

 三人は席を立つと、笑いながら屋敷を後にした。

 道中、中将は二人の話に談笑しながらも、昨晩、桜が美しかった屋敷で見た女の事をずっと考え続けていた。

 あの女の事をどうにか知りたい――。

 その思いは時と共に募る一方であった。





 夕方、中将は父君の元に参上した。

 御簾《みす》を巻き上げ、次第に暮れ行き霞む空や、桜が散り乱れる夕映えの景色を眺める中将の顔は光に満ち、また黄鍾調《おうしきちょう》で琵琶を弾くのどやかな手つきも何とも麗しく、「絶世の美女もこれほどではあるまい」と周囲に言わしめるほど素晴らしい様であった。この琵琶がきっかけとなり、管弦に通じた人々を召して盛大な宴が催された。

 宴も終わりに近づいた頃、光季《みつすえ》という家来と彼の知り合いとの会話が、ふと中将の耳に入ってきた。

「――流石は中将の君。これほど素晴らしいご器量ならば、世の女が絶賛するのも必定だと思いませんか?」

「全くその通りですな」

「そうそう、中将の君で思い出しました。近衛の御門の辺りに、琵琶の演奏に長じた姫君がいるのをご存知ですか。何とも言えぬ趣を感じさせる屋敷なのですが――」

 この会話に耳に留めた中将が、慌てた様子で間に割って入った。

「光季、それはどこの女の話だ」

「――は?」

「桜花と尾花とに囲まれたあの屋敷の事を、どうしてお前が知っているのだ。その訳を教えてくれ」

 光季は目を瞬き驚いた様子で中将の顔を見上げた。

「……まあ、その、ちょっとした伝《つて》がありまして」

「その場所について知りたい。もっと詳しく話して欲しい」

「はあ、私の知っている範囲でよろしければ」

 そう断ってから光季はぽつりぽつりと語り始めた。話に依ると彼は、中将が垣間見した「月と花と」を諳んじていた女童と情を通じ合う間柄であり、しばしばあの屋敷に出入りしているとの事であった。

「――それで、お尋ねの姫君ですが、今は亡き源中納言殿の忘れ形見でして、私自身はお顔を拝見した事もございませんが、それは美しいお姿だそうです。然しながら、先ごろ耳にした噂では、叔父上の大将殿が『姫君を養女として迎え帝に奉ろうではないか』と仰っているとか」

「な、何だと――!」

 中将は声を荒らげた。

「光季、そうならない前に何とかならないのか!」

「いやさて」

 光季は額をぴしゃりと叩くと、首を傾げ申し訳なさそうに答えた。

「何とかして差し上げたいのは山々ですが、さてどうしたものか。――少しばかりお時間を下さいませ」





 翌日の夕方遅く、光季は例の女童の部屋で彼女を説得していた。

「頼む、我が君の為に計らってくれないか」

「そんな、駄目です。いくら貴方の頼みでも困ります」

 女童は首を横に振った。

「私達、日頃から大将殿に『よいか、絶対に男を近づけるのではないぞ』と口やかましく注意されている上に、祖母君からの厳しい仰せで、男の方からの文を取り次ぐ事すら出来ないと言うのに――」

「もちろん無理は百も承知だ」

 光季は額を畳に擦り付けた。

「だが、もう一度よく考えてくれ。我が殿との話、決して悪くはあるまい?」

「それはそうなのですけど……」

 女童は視線を落とし、消え入りそうな声で呟いた。

「頼む、この通り。私とお前の仲ではないか」

「……でも……」

「お願いだ!」

「…………」

 女童は大きく溜息を付くと、そっと口を開いた。

「……分かりました」

 その言葉に光季はぱっと顔を上げた。

「い、今、何と――?」

「他ならぬ貴方のお願いですものね。何とか計らいましょう」

 女童は顔を上げると目元に静かな笑みを浮かべた。

「その時が来たらすぐにでもお知らせます。――でも皆様には内緒ですよ?」

「忝い。それでは今宵という事でよろしく頼むぞ!」

「あ……」

 女童が止める間もなく、光季は喜び勇んだ様子で帰って行ってしまった。

 後には中将から女に宛てた文が残された。

 女童は溜息を付きそれを拾い上げると、しばしの間どうしようか迷った。だが結局、女には取り次がず処分する事にした。いきなり中将からの文を渡しては不審がられ、場合によっては事を失しかねない判断したのである。

 結局、女童は光季に押し切られた形で要求を受け入れてしまったが、姫君の入内の日が近いという事で屋敷の人々が喜んでいる時分に、それを覆してしまうきっかけを作った彼女の判断は、第三者から見るといささか軽率と言えよう。

 一方の光季は、すぐさま中将の屋敷へ報告に参上した。

「例の件、先程、見知りの童に確約を取って参りました。今宵がよろしいかと」

「光季、でかした!」

 中将は膝を打つと、光季の手柄を大いに褒めた。

 ――その日、少し夜が更けてから決行する事になった。

 光季の牛車を借り受け、それに乗車して屋敷の前まで行くと、予定通り女童が見張りをしており、彼女の手招きで屋敷の中に入る事が出来た。

 女童の計らいか室内は薄暗く、ともすれば互いにぶつかってしまうほどの暗さの中、中将達は母屋まで行き着くと、静かに寝息を立てる女を抱きかかえ、牛車まで連れ出し、気付かれぬうちにと急いで車を走らせた。

「こ、これは一体何事ですか?!」

 程なく目を覚ました女は、我が身に何が起きたのか分からず、驚きの声を上げたが、時既に遅し、あれよという間に八葉の車は中将の屋敷へと到着した。

 中将は颯爽と車から降り立つと、ゆっくりとした足取りで箱に近づき、恭しくその御簾を巻き上げた。

 ――さて、ここで時間を少し遡る。

 その日、中将の乳母に当たる人から「中将が姫君の略奪を画策している」との話を伝え聞いた女の祖母が、心労のあまり体調を崩し、母屋で床に臥せっていたのだが、背丈が小柄な上に、剃髪した頭が寒いという理由で頭の上から着物を引き被っていた。

 賢明な方はもうお分かりだろう。

 箱の中ですっかり怯え切った様子で震えていた人物、それは中将が目当てにしていた姫君の祖母であった。



【主な参考資料】

 「堤中納言物語」 三角洋一 訳注、講談社学術文庫

 「堤中納言物語」 塚原鉄雄 校注、新潮日本古典集成

 「堤中納言物語」 大槻修 校注、岩波文庫